年内振り返り

 

2021年もあと少し

今年は本当に泣いてばかりの年だったと思う

 

パパの病気が分かって、闘病生活を共にして

亡くなってからもずっと後悔して

 

何度も『なんで』って思ったし今でも思う

振り返れるほどの強さは、まだない

 

それでも振り返らないと忘れてしまうから

私の記憶力の無さは凄いからね

既にあやふやで、夢か幻を見ていたような気持ちだから

今のうちに

 

パパの闘病生活中のことはこのブログにまとめてあるから省略

 

その後からのことを振り返ると

ママは確実におかしかったけど、私もお兄ちゃんも少しおかしくなっていたんだなって今は分かる

 

パパが亡くなってから数ヶ月は家族関係が変だった

まともな会話が出来ない状況

 

それでもママを病院に連れて行かないといけなかったし、同じ家で暮らしてるから必要最低限の会話はしてたけど

 

でも思い返すとさ、大好きなパパがこんな早くに亡くなってしまったのに葬儀とかでずっとバタバタして、その後やっと落ち着いたと思ったらママが自殺未遂したりずっと 殺してくれ〜 って家の中で叫んだり

 

そんなんでおかしくならない方がやばいんよ

 

むしろそんな状況でママに引っ張られずに耐えきった私の精神力を自分で褒めるよ

 

この1年で私は私が思ってるより強いということがよく分かった

 

 

そんなママも精神科に通って薬をちゃんと飲むようになってからは本当に安定して

 

今でも薬は毎日飲んでるけど、家のことをしっかりやって、仕事も何か始めようかなぁって言ってるくらい前向きになった

 

 

お兄ちゃんはずっと怒りっぽくて会話するのもしんどかったけどそれがなくなって、普通に会話が出来るようになった

 

 

そんな風にそれぞれがゆっくりゆっくり『普通』を取り戻していって、秋が終わった

 

私は今でも心のバランスが少し崩れるとパパのことを思い出して泣いてしまうけど

 

《パパが経験出来なかったことをたくさんして生きていく》

 

それを目標に生きることを頑張ると決めた

 

幸いにも私は好奇心が旺盛な方だから、やりたいことはたくさんある

 

その中でもずっと前から取りたかった

普通自動二輪免許

ほんと途中で挫けそうだったけどなんとか取得

 

パパは車好きでバイクは友達のに乗せてもらうくらいだったみたいだから免許持ってなくて

 

もし今パパがいるところにバイクがあったら私が前でタンデムしたいな、なんて思ったり

 

 

でもやっぱりさ、将来のこと考えると悲しくて

 

私はきっと、パパに彼氏を紹介しなかったことを一生後悔して生きていくんだろうなって

 

先日、彼氏のお父さんお母さんと彼氏と私でご飯食べた時とか

友達の両親への結婚報告の話を聞いた時とか

 

どうしても頭の中に『私にはパパがいない』という現実がまとわりついて、悲しくて

 

だからと言って彼氏のお父さんお母さんとご飯食べたくないとか、友達のそういう話を聞きたくないとかじゃ決してないんだけど

 

これは私がパパを好きすぎるが故の枷だと思って受け入れていくしかないのかな

 

まだまだ時間はかかりそう

 

 

悲しい話はもうここまでにして、嬉しい話を

 

正式に彼氏との同棲が始まりました!!!!

 

2月に物件決めて、3月から契約して、でもなんやかんやあったから結局住民票を移せたのは12月

 

彼氏と同棲出来ない〜ってめちゃくちゃ泣いてた日から9ヶ月

 

本当に嬉しい

 

 

そしてずっとやってみたかった事務のお仕事も決まった!!!!!

 

まあこれはちょっとどうなるか分からないから嬉しい話なのか微妙なラインだけど…働けるかな私……不安が大きい

 

 

あとはまだまだ何も分からない状態だけどプログラミングの勉強を少し始められたことも私にとっては大きな一歩

 

ゲーム作れるようになりたいな…あわよくばプログラマーとかになりたい…勉強しなきゃ…

 

 

そんなこんなで、振り返りおしまい!

 

振り返ると悲しみが大きすぎるだけで、幸せな時間もちゃんとある

 

小さな幸せを取りこぼさないように、生きていきたいね

 

 

 

 

 

 

 

伝えたいこと

久しぶりに開きました。

毎日が慌ただしくてブログを書く気力もなく過ごしてたらあっという間に1ヶ月経ってしまいました。

 

 

5月13日 5:06

パパが亡くなりました。

 

正直、面会中のこととか最後の方の様子とかはあまり思い出したくないけど、前回のブログを読んで少しは書いておこうと思います。

 

 

まず、放射線治療は無事にやり終えました。

全5回、肺と首両方にやったそうです。

肺の方は最終日には小さくなっているのが確認出来るくらい効いてたみたいです。

 

そして面会も5/2までは毎日行けました。

その時期に新型コロナ感染者数が増加した影響なのかPCR検査キットの数が少なくなってしまい、面会の人の分まで用意が出来ないという説明を受けました。

ただ、1家庭1人までは大丈夫とのことでママに最後まで毎日行ってもらいました。

 

最初の週(4/19~)はびっくりするくらいパパの調子も良く楽しい時間を過ごせました。

食べ物の持ち込みが自由なのでパパの好きな物を持って行って一緒に食べたりしました。

 

次の週(4/26~)くらいからだんだん痛みが酷くなり、食べる量が減って起きてる時間も短くなりました。

それでも4月27日(火)にパパの61歳の誕生日のお祝いをして、みんなでケーキを食べました。

 

次の週(5/3~)くらいから手に力が入らず1人でご飯が食べられなくなりました。

ご飯食べてる途中に寝ちゃうくらい、起きてる時間が短くなっていきました。

日に日に出来ることが減っていきました。(物を掴む→歩行→自分で座位になる→食事→会話(反応する)、の順に出来なくなっていった)

それでも5月9日(日)まではママにスマホを持ってもらいながら電話することが出来ました。

 

最後の週(5/10~)

10日が最後の食事となりました。量は少ないながらも最後まで固形食を食べてたみたいです。

 

11日、ママが行くと痰が絡むような音と苦しそうな表情だったので痰を吸引してもらいました。(緩和ケア病棟だと痰の吸引はしないと言われてたけど本人が苦しそうだとやってくれるみたいです)

その時に首を動かされたのか痛みで少し暴れた(看護師さんを軽く蹴ってしまった)ようで、モルヒネ(痛み止め)を点滴で、睡眠薬(暴れ防止)を筋肉注射で入れたらしいです。

先生がパパの様子から残りわずかと判断したようで、PCR検査受けてないけど特別に面会許可が出ました。

睡眠薬の影響か呼びかけると一瞬起きて返事はするけど喋ることは出来ない状態だったのに、最後の最後(20:30頃)に1分弱ほどハッキリ覚醒して、名前を呼んで、『ありがとう』と家族に向けて言ってくれました。

 

12日は痛がったらモルヒネだけ点滴で入れて、あとはずっと寝てる状態でした。

この日も面会出来たけど、呼びかけてもあまり反応はなかったです。

 

13日の3:30頃に病院からママに連絡があり、準備して向かうとパパは息を引き取っていました。

看護師さんの話では連絡してから10分後くらいに眠るように息を引き取ったらしいです。

パパは待ってくれていたかのように体温が残っていました。

少し家族の最後の時間を過ごし、5:06、医師による死亡宣言がされました。

 

 

正直、5月末くらいまでは大丈夫だと思っていました。

あと最期には立ち会えると。

 

どっちもだめでした。

 

 

こうやってブログを書きながら過去を思い出していくと後悔ばかりが浮かんで『あの時こうしていれば』って思っちゃうけど、過去にはどうしたって戻れなくて。

 

私たちは先に進むことしか出来ないから、今、生きている人、大切な人が生きている人に伝えたいことをこれから書きます。

 

 

まず健康診断を受けてください。

あなたの大切な人の健康診断の結果を見せてもらってください。

 

些細なことでも再検査の必要があったら行ってください。

一緒に行ってあげてください。

 

お金も時間もかかるけど、健康に生きることが最優先だと思い込んでください。

自分や自分の周りは大丈夫、と過信しないでください。

 

 

次に大切な人との思い出を写真や動画で残してください。

 

旅行や何かの記念はもちろんだけど、ありふれた日常も残してください。

 

人間は声から忘れていくと言われています。

あなたを呼ぶその声を、残すようにしてください。

 

 

最後に大切な人のことをよく知ろうとしてください。

知ってもらうように話してください。

 

趣味、嗜好品、大事にしている物・人、大切な記憶…

 

毎日飲んでいるそのお酒は好きで選んでいるのか、安いからなのか。

年月が経てば趣味も嗜好品も変わるかもしれない。

 

知った気にならず、きちんと知ろうとしてください。

 

 

どれも私がやらずに後悔したものたちです。

 

健康診断の結果をきちんと確認していれば、こんなことにはならずに済んだはずなのに。

 

病気が分かる前の何気ない日常の私を呼ぶ声を、もっと聞けたはずなのに。

 

映画が好き、音楽が好き、ドラマが好き、お酒が好き…でもどれも『特定のもの』が分からないんです。なんで聞かなかったんだろう。もう聞けないのに。

 

 

面会中は見ているのもしんどくて辛くて、どんどん弱っていくのが分かるから悲しくて寂しくて仕方なかったけれど。

事故などで突然のお別れになることもある。

 

それはきっと、今よりもやるせなくて、受け入れ難くて、でもどうしようもない現実がそこにあって。

 

そういう事を思うと、ゆっくりとなんとなく、心の準備が出来ていったこの状況は恵まれているんだと思います。比較するものでは無いけれど。

 

 

このブログを読んでも結局は他人事だから何とも思わない人もいると思います。

 

今まで私はそうでした。

過去形にしていいのかまだ分からないけど。

 

こういうことは他人事でしかなくて、自分の周りには起きないとなんとなく思っていて。

そのバチが当たったのかなぁなんて思う時もあるけど。

 

そういう人は一定数いると思うんです。

いても別にいいと思うんです。

 

ただ、自分がそうなった時に後悔するだけだから。

 

 

願わくば、1人でも多くの人が大切な人を大切に出来ますように。

 

 

ガンの話、おしまい。

 

 

緩和ケア病棟

タイトル通りです。

パパは緩和ケア病棟に行くことになりました。

その経緯などを書いていきます。

 

前回4/8に入院したところまで書いたと思うのでその先を。

 

4月9日(金)

整形外科の先生に診てもらい、首の固定具(コルセット?)を作ってもらいました。

詳しくは全然分からないのですがオーダーメイドらしいです。(採寸されたらしい)

ただ本当にどういうものなのか分からない状況なので分かったら追記しようかと思います。

 

ただ痛みはコルセットをしていてもあまり変わらないみたいでした。

顎に器具?が当たるらしく喋りにくいって電話で言ってたらしいです。

 

救急車で運ばれた時の血液検査で貧血が酷いことが分かっていたので、この日から3日連続で輸血をすることになりました。

 

 

4月11日(日)

3日間の輸血が終わったので本人から『もう帰れるのかな?医者から何か連絡はないの?』という電話がママにありました。

今はまだ何も連絡ないよ、と答えたそうです。

 

 

4月12日(月)

朝の回診で主治医の先生に『退院して脳外科で治療してきてください』と言われたけど本人が『自信が無い』と答えたそうです。

それにより先生から呼び出され、緩和ケア病棟に行くことを勧められました。

 

昨日の夕方までは帰りたいって言ってたのに急におかしいと思ってママが電話したところ、パパの心が今までにないくらい弱っていました。

 

更に先生からは患者の状態を示すPS(パフォーマンスステータス)というものがあり、パパは3~4で抗がん剤治療をすることが出来ないとも言われました。

 

ただ強制することは出来ないので、緩和ケア病棟に行くか否かは家族と本人で話し合って決めてくださいとのことでした。

 

緩和ケア病棟とは治療をせずに体や心の苦痛を少しでも和らげて過ごしてもらう、という所です。(パパのいる病院ではそういう説明をされました)

 

つまり穏やかに残りの時間を過ごすための場所。

 

そんな所に行かせるなんて…という気持ちが強く、同病院の放射線の先生に相談して、なんとか治療が出来ないか掛け合いました。

 

放射線の先生は私たち家族に寄り添ってくれて、治療したいことを主治医の先生に伝えてくれたのですが、返ってきた答えはNO。

 

そして

《パパの残りの時間が『週単位』である》

ということが伝えられました。

 

 

伝えられた時はショックでただただ泣くことしか出来なかったけど、落ち着いてから調べたら週単位とは約2ヶ月以内のことを指すそうです。

 

それでも絶望しかない。

 

3月頭に検査した結果と4月頭に検査した結果を比べると肺のガンの大きさが約2倍になっていて、抗がん剤治療が出来ないとなると呼吸が出来なくなって…ということらしいです。

(正直この辺りの記憶が曖昧なので間違ってるかもしれません。)

 

緩和ケア病棟に行く以外の選択肢がなくなった瞬間でした。

 

 

4月13日(火)

パパから『主治医の先生との面談があって主治医の交代を言われた』という連絡がありました。

たぶん治療できないということも説明されたと思います。

本人は緩和で良いとのことでした。

 

個人的には前日の言動もあって、主治医の先生に見捨てられたという気持ちしかないです。

 

 

4月15日(木)

緩和ケア病棟の詳しい説明をママとお兄ちゃんが聞きに行きました。

話を聞いてるだけでも本当に『最後の時間を過ごす場所』って感じで怖くなりました。

 

ただこういうご時世だけど条件付きで面会OKというのはありがたいです。

(緩和ケア病棟でも滅多にないらしいです)

 

面会の基本条件としては

・一家族2人まで(特別に3人にしてもらいました)

PCR検査をして陰性であること

PCR検査の費用は2人までは低額だけど3人目は特例なので全額自費)

というものらしいです。

 

月曜日(4/19)に面会が決まりました。

 

 

4月16日(金)

放射線科の先生から、緩和ケア病棟に行くと進行を遅らせる為の照射ができるということを説明されました。

 

①肺の照射

今の進行スピードだと5月頭には片方の肺が潰れる可能性が高いので、それを防ぎつつガンの進行を遅らせる為に肺に放射線をあてる。

ただ既に肺がんが大きくなりすぎていると照射できないので月曜日(4/19)にCT検査をして現在の大きさや位置を確認、その日の午後に可能であるか判断。

照射予定回数は5~10回。

 

②首の照射

こちらも放っておくと脊椎を傷付ける可能性があるので照射する。

首は既に1度当てたけれどあまり効果がなかったようなので今回は強めにやる。

照射予定回数は5回。

 

③リスクなど

・肺がんが大きいので当てる部分が多い=健康な肺にも当たるので肺炎になる可能性がある。

・検査などで寝かしつける時に首を痛める可能性がある。

・今よりも体力が落ちてくると照射が難しい。

・効果が出るのは1ヶ月~2ヶ月後。

 

④その他

・水曜日(4/21)から開始で1日1回、休日以外は毎日照射の予定。

・1回あたり20分くらいだが肺と首を同時にやるなら40分くらいかかる。

・緩和の先生は痛みのコントロールがしっかり出来る先生なので、放射線当ててる間はじっとしていられるくらいになると思われる。

 

どう書いたらいいか分からないので箇条書きにしました。

 

なんていうか、とにかく放射線の先生は出来る限りのことをやろうという意思が強くて本当に嬉しいです。

 

ただやっぱりリスクもあるから本人と家族次第にはなるので話し合ってくださいねということでした。

 

緩和ケアに行くことが前提なので、仮に肺炎になっても積極的な治療はされません。

人工呼吸器や挿管はせず酸素吸入くらいしかしないらしいです。

でもこれは一般病棟であっても肺がんが酷い人に対しては同じ対応になるみたいです。

 

 

私とお兄ちゃんは出来る限りのことをして欲しいから、緩和ケア病棟に行って放射線をやりつつ痛みを抑えてもらって、動けるようになったら退院という流れが理想かなと思ってます。

 

本人も放射線をやる意思はあるみたいですし。

 

でもやっぱり家に帰りたい、一旦帰ってから緩和の方に再入院出来ないかって言ってたらしいです。

 

というのも私のおじいちゃん(パパのお父さん)は違う病院で違う名前だけど内容としては似たような病棟に移ってからすぐに亡くなったそうです。

(私はこの時この話を初めて聞きました)

 

それと重なって不安になってしまったんだと思います。

 

今は精神力を強く持ってもらわないとダメだと思ったので、『緩和に行って治療して、痛みが落ち着いたら帰ろう』と伝えてもらいました。

 

 

こうして緩和ケア病棟に行くことが決まりました。

本当はもっとバタバタしてたんですけど情報が行ったり来たりしてたせいで記憶が曖昧なので端折ります。

 

個人的には効果が出るのが1ヶ月後なのが気になるところだけど、今はとにかく放射線が出来ることを願います。

 

そしてPCRが陰性であること、面会中は楽しく過ごせることも。

 

 

ちなみにママの様子は相変わらずです。

自力では眠れない、疲れやすい、あと少し食べる量が増えたかな?と思います。

 

パパの余命宣告(と言っていいものなのか分からないけど)がされた時には一緒に大泣きしたのでまだ悲しいという感情は生きてる。

 

逆に最後に笑ったところを見たのはいつだろう?ってなるのでプラスの感情はほとんど消えているんだと思います。

 

 

私もさすがにこの1週間は精神的に不安定になりました。

 

すぐ親友たちに話を聞いてもらって、たまたまだけど友達と会う予定があったから落ち着いたし気分転換も出来たけれど。

 

それでも心のバランスが崩れているのが分かります。

 

明日というか今日だけど、面会に行きたいけど行きたくない。

現実を受け止めなきゃと思うのにもうこれ以上何も受け入れられないと拒絶したい。

まだまだ生きたいともこんな人生生きる価値ないとも思う。

 

全て投げ出して逃げてしまいたい。

けどそんなことしたって何も変わらない。

 

生きるって難しいですね。

 

 

 

もし神様がいるのなら

どうお願いしたら私たち家族はハッピーエンドを迎えられますか

 

 

 

入退院の繰り返し

日々色々なことがあるから書かなきゃとは思っていても向き合えなくて、あっという間に前回のブログから2週間経ちました。

 

本当に色々ありすぎたので覚えていることを書いていきます。

 

 

前回のブログは3月25日(木)の朝方に更新。

いつ退院出来るかなぁって思ってたらその日の午後に病院から連絡があって、土曜日(3月27日)に退院が決まりました。

 

ママもため息ばかりで落ち込んでいたのがちょっと元気になってました。

 

 

そのまま予定通り3月27日(土)に退院。

ママと迎えに行ったら声がしゃがれてるっていうのかな、ガサガサした小さい声しか出ないし首の痛みは入院前とそんなに変わって無さそうだしで不安いっぱいになりました。

 

家に着いて、パパは帰って来れたことに、ママと私は帰ってきてくれたことに感謝して3人で抱き合って泣いちゃった。

 

この日から今日までの全体的な様子としては

・夜中~朝が1番痛そう(頓服の痛み止めけっこう飲んでる)

・午後から夜にかけてが1番調子よさそう

・寒い日は特に痛みが強い

・ご飯はお粥+おかず少し、トマトをよく食べてた

・しゃがれ声は2~3日で気にならなくなり、そこからは声量も出るようになって元通り

という感じでした。

 

 

3月30日(火)にまた病院へ。

たしかこの時は頓服の痛み止めを追加で貰うのと、別病院の脳外科の先生に紹介状を書いてもらいたいことを先生にお話する目的だったと思います。

 

脳外科のことは以前先生が手配しておくということになっていたのでその確認もありました。

 

まずその話をする前に、

・検査の結果が出て癌の型が『扁平上皮癌』であること

抗がん剤治療を始めること

抗がん剤は点滴であること

が先生から伝えられました。

 

そこから脳外科の話をしたら

抗がん剤と並行して出来るかの確認

・予約などは先生がしてくれること

・全ての結果を踏まえて明日(3月31日)治療方針についての話をすること

が決まりました。

 

パパは病院だと車椅子なので、抗がん剤は体力がないと出来ないですよって念を押して言ってました。

 

その日はそのまま放射線の先生のところにも行きました。(上記の先生は呼吸器内科の先生で主治医です)

 

痛みを抑える目的で首と腰に放射線を照射したのでその経過観察のようでしたが、いろいろな話を聞いてくれました。

 

そこで前から気になっていた『首の痛みは骨折の痛みではないのか』について聞いたところ、答えは『それもある』でした。

 

パパの場合は首の骨に癌が転移して成長した結果、骨が砕けかけているという状態です。

 

健康な人間でも骨折したら相当痛みますよね。

それが首で起きているのと同じなんです。

 

ただ健康な人と違うのは癌があることによって『癌の痛み』がある。

その癌の痛みを取るために放射線をあてた、ということらしいです。

 

でも仮に癌の痛みが消えても骨折の痛みは残ります。

骨なので自然に治るのを待つしかないけど、癌がいると骨は治らない。

 

この話を聞いて『じゃあどうして癌を消すための放射線をあてなかったんですか』と言えなかった自分が悔しい。

『首の痛みが本当に辛そうだから固定具とかを使うことは出来ないですか』ってなんで聞かなかったんだろう。

 

この言葉たちを飲み込まなければ今日という日は来なかったかもしれないのに。

 

 

翌日、3月31日(水)

調子が悪そうだと思いつつ病院に行ったら熱があり、病院の規定でPCR検査しないと診察ができないとのこと。

 

ただ痛みが酷いので、体に貼るタイプの麻薬系の痛み止めの量を増やしてほしいことを看護師さんから先生に伝えてもらい、その処方だけ午前中に貰いました。

 

午後イチで検査を受けて検査結果は陰性、夕方頃の診察で

・4月2日から抗がん剤治療開始

・治療は毎週金曜日に通院で行う

抗がん剤は最初2種類、脳の治療が終わったら3種類

・4月6日に脳外科の予約

ということが話されました。

 

抗がん剤の副作用については軽くしか説明されなかったそうです。

(この日の午後から土曜日まで実家を離れていたので聞いた話)

 

 

4月2日(金)

パパが点滴するついでにママも耳鼻科にかかろうとしたところPCR検査してくださいとのことで結局夕方からの診察に。

(ママも陰性でした)

 

血液検査をしたところ貧血が酷いので点滴のあと輸血もすることになり、終わる時間が夜中になるということで急遽入院になりました。

 

 

4月3日(土)

何事もなく退院。

輸血の効果は1週間後くらいに出ると説明があったそうです。

 

この日からいつ副作用が出るのかヒヤヒヤしながら見守っていたけど結論から言うと今日まで副作用は出ませんでした。

 

 

4月6日(火)

紹介状を持って脳外科に行きました。

どれくらい酷いのかと覚悟してたのですが、先生が紹介状に入ってたMRI画像を見て『3つとも小さいから消滅させられますよ』と言ってくれて初めて希望が見えました。

 

サイバーナイフという確実にピンポイントで癌の部分に放射線をあてる機械を使うのですが、その治療時間が1回40分~1時間ほど。

 

その時間は仰向けになってじっとしていないといけないので、難しいようであれば主治医の先生に痛み止めを強くしてもらってきてくださいと言われました。

 

サイバーナイフの治療回数は再度CTとMRIの検査をして現在の癌の大きさが分かってから決めるらしいのですが、大脳にある2つを同時に1回、小脳は1~3回で終わると思います、とのことでした。

 

そこで木曜日(4月8日)に検査、月曜日(4月12日)から治療開始というスケジュールになりました。

 

治療が終わるまでは基本的に毎日通院、それが辛ければ入院も可能であることも伝えられました。

 

通院となると大変だけど肺がんと診断されてから初めてこんなに明るい希望が見えたので本当に嬉しかったです。

 

 

4月7日(水)

検査もじっとしていないといけないので痛み止めを強くしてもらうのと頓服の痛み止めを追加で貰いに行きました。

 

ここで痛み止めについて少しお話を。

かなり酷い痛みなので3月19日の入院の時くらいから麻薬系の痛み止めを使用しています。

 

最初はモルヒネを使ってたと思うのですが退院する頃には『フェントステープ』という体に貼って皮膚から吸収されるタイプの麻薬系の痛み止めを常時使用しています。

 

頓服では『イーフェンバッカル200μg』×2。

これは上の歯茎と頬の間に錠剤を挟んで溶かし、頬の粘膜から吸収されるというものらしいです。

飲むタイプの薬より吸収速度が早くて即効性があると薬剤師さんが言ってました。

 

フェントステープは最初2mgだったのが3月31日に4mg、そして4月7日に6mgに変更になりました。

 

正直2mgから4mgに変わった時はあんまり効果がないのかな?と思ってたのですが、本人に聞いてみたところ少し楽になったそうです。

 

だから6mgに変わってもそこまで大きくは変わらないのかなぁと思っていたのですが、7日の午後は久しぶりにぐっすり眠れてたり痛みが酷くて食べる気にならなかったご飯をぺろりと食べて更におかずもいつもより食べてたりと大きな変化が見られました。

 

話が前後しますが、ご飯を食べる気にならないほど痛みが増したのは日曜日の夜からです。

月曜日からは右肩が痛いということでさすってみたら酷い肩こりで、原因が分からないのとタイミング的に抗がん剤の副作用かな?と思ってました。(違いました)

 

 

そして4月8日(木)

朝から脳外科で検査の予約があるのでママが起こしに行くと応答が変だと言ってました。

どういうことかと思って様子を見に行くといつもの首が楽な体勢から動かないままずっと『検査行く、検査行く』と言っていて。

 

検査行くよ、動ける?と聞いても『わからない』

首が痛いの?『わからない』

頭痛いの?『わからない』

動けないの?『動ける』→動かない

 

応答はなんとか出来ているけど自分の状態が分からなくて、体も動かない感じがおかしいと思ってすぐに薬の副作用を調べました。

 

意識はあるけどちょっと様子がおかしい感じなのと、昨日と今日で違うのがフェントステープの強さなのでこの時はその副作用かなぁってママと話してました。

 

とりあえず検査には行けない様子なのでママが脳外科の病院へ連絡。

そのうちパパの呻き声が聞こえてきたので慌てて行くと『頭が痛い』と言ってました。

 

頭が痛いというのは初めてだったのと、いろんな先生から『頭は痛くないですか』と聞かれていたのが印象に残っていてこれは危険なやつかと思いすぐに119番。

 

すごく気が動転していたので症状をどう伝えたのか覚えていないけど、住所を伝えたらすぐに向かってくれることになりました。

 

そうしているうちに今まで聞いたことないような声で『頭が痛い』と叫び始め、数分後には呼吸が苦しいと訴え始めました。

死んじゃうよ、助けてって言ってるのをママが宥めていたと思います。

 

私はずっと199番に救急車が来るまで電話を繋ぎっぱなしにしてもらいました。(そういうものなのかもしれない)

 

何か変化があればすぐに伝え、電話口からの『落ち着いてください』『もしこうなったらこうしてください』という声を頼ることしか出来ませんでした。

 

幸いにもパパは苦しいとずっと声に出して訴えていたのでそれが呼吸してることと意識があることの証明になってました。

 

ほどなくして救急車が到着。

その頃には頭の痛みも呼吸の苦しさも落ち着いていたようでしたがそのまま搬送されました。

 

搬送先は主治医の先生がいる総合病院を希望したら受け入れてくれることになりました。

 

 

病院に着いてCTとMRIとたぶん血液検査もしたんだと思います。

 

検査結果から『首の骨が潰れていて神経を圧迫し頭痛に繋がっている』ということを説明されました。

 

画像を見せてもらいましたが本当に潰れているっていう表現が正しすぎるくらい、一つだけ骨の厚みがなくなってました。

 

この状態だと整形外科になるとも言われました。

整形外科の先生に診てもらい首の固定具を作って痛みを抑えて、本来の治療方針の通り脳外科に行くのが良いと。

 

今の状態で下手に動くと下半身不随になりかねない状況でもあるので暫くは入院ということも決まりました。

 

入院するためにパパはまたPCR検査を受けて結果は陰性、そのまますぐ病棟へ移りました。

 

 

せっかく希望が見えて、このまま上手くいけばと思っていた矢先の出来事だったのでショックがすごく大きいです。

 

これから先、もしかしたらパパは歩けないかもしれない。

(歩くのが怖いと言っていた)

 

痛みが酷くて緩和治療になってしまうかもしれない。

 

そうなったらもう…

 

って悪い方向にばかり考えてしまいます。

 

 

なんでこんなに悪いことしか起きないんだろう。

良い事も聞けた、聞けたけどそれだけじゃ良い方向には進まないのに。

 

 

明日(4月9日)整形外科の先生に診てもらう予定らしいです。

 

そこでこれからどうするか、どうなるかがある程度決まるのかな…と思います。

わからないけど。

 

どうか明るい未来に1歩進みますように。

 

 

 

1週間半

前回のブログから1週間半ほど経ちました。

 

状況がいろいろ変わってたけどあえてブログを書かずにいました。

このことについては最後に書きます。

 

私はこの1週間半、実家にはいなかったのでママやお兄ちゃんから聞いた話をまとめていきます。

 

 

月曜日(3月15日)に脳のMRIと首の放射線照射、腰のCTをとりました。

元々はMRIだけの予定だったけど、この時に飲んだ麻薬系の痛み止めがよく効いていたので追加でやったらしいです。

 

この時から痛み止めは麻薬系に切り替わったらしいけど次の日からはあまり効かず。

この日くらいから食事以外はほとんど寝たきりになったらしいです。

 

 

火曜日(3月16日)に痛み止めが足りなくなりそうだからママが1人で病院に行ったところ、脳にも癌が3つあること、その治療が出来るのは限られた病院のみで今行ってる所では受けられないことが伝えられました。

 

 

水曜日(3月17日)の夜からは深呼吸すると肺が痛むと言っていたみたいです。

 

 

そして木曜日(3月18日)、首の痛みが酷すぎるのと吐き気が酷いので主治医の先生に電話したところ『治療に通えない状態なら緩和ケアに行った方がいい』と言われました。

 

ここで言う緩和ケアとは入院して治療を行わずに苦しさを取ることに専念することです。

 

前にも書いたように入院したらリモートでしか会えないし、この場合は治療しないので退院の見込みはありません。

 

パパの様子としては吐き気が酷く朝から何も食べれず飲めずだったけど夜になったら少し落ち着いたようでお粥を少し食べれたみたいです。

 

ただ夜には熱が出ていて、刻一刻と変わっていく状況にママもお兄ちゃんも焦っているのが連絡越しに分かりました。

 

もちろん私も焦っていて、すぐに実家に帰るかすごく悩みましたが結局帰りませんでした。

(このことも最後に書きます)

 

 

金曜日(3月19日)、前の週に行った検査とMRIの結果を聞きに病院へ。

 

前の週に入院してまでやった検査は結論から言うと意味がありませんでした。

癌の周りに膜?があって、がん細胞の性質まで調べることが出来なかったらしいです。

 

その再検査と痛みを抑えるためにパパは入院することになりました。

 

まず痛みを落ち着かせてから再検査、そのうち首と同様に腰も痛み出すだろうから予防的に腰に放射線照射×2ヶ所も入院中にやり、それから脳の治療のために別の所へ

というのが先生のプランらしい。

 

ただいつ状況が悪化してもおかしくないし、これ以上悪化したら緩和ケアに移るとのこと。

 

脳の癌は大脳に小さいものが2つ、小脳に1~2cmのものが1つあって、この小脳にあるものが吐き気やふらつきを起こしやすいらしいです。

 

あと小脳にあるやつは入院してる病院でも治療可能だけど20分ほどじっとしていないといけなくて、今は痛みがあるからそれが出来ないので痛みを落ち着かせるのが最優先。

 

再検査については痰が出せればそれで検査可能と言われてたけど、入院後にお腹の皮膚に転移してるものから取りましょうってことになったらしいです。

 

首はこれ以上傷めると下半身不随になる可能性もあるということも伝えられました。

 

癌については

肺に2つ(大元)

首に1つ

腰に2つ

お腹(皮膚?)に1つ

脳に3つ

副腎、肝臓にそれぞれ小さいものあり?

というのが今の状況みたいです。

(聞いた話を聞いてるので間違ってるかもしれない)

 

この時言われた最短の退院予定日が月曜日(3月22日)

さすがに早すぎて4日間で痛みとって検査して放射線照射×2するの?!って聞きました。

 

 

結局今も入院しています。

 

月曜日(3月22日)までは毎日パパからママに電話が来てたみたいだけど火曜日(3月23日)からは連絡が来てないみたいです。

 

電話の内容だと普通のご飯は食べれないからお粥にしてもらったとか、家にいる時は食べたい時に食べたいもの(プリンとかバナナとか)を食べてたって話を先生にしたらそうしていいって許可が出たから持ってきてだとか、わりと元気そうでした。

 

ただ痛みが取れないって言ってたそうです。

モルヒネを使うって聞いたから効くだろうなってなんとなく思ってたんだけどなぁ…。

 

でも腰の放射線をやったらしいので少しは効いてるのかな、とも思います。

 

 

今日(3月24日)ママが差し入れを持って行ったら看護師さんに今日再検査したんですよって言われたらしいです。

 

少しずつやることが進んでいて良かった。

 

ただ連絡がないからママは心配で仕方ないみたいです。

 

 

ここからはママの話。

 

3月13日に鬱病と言われて、睡眠導入剤が処方されました。

 

ママも眠れないのが辛いと言ってたから妥当だな、と。

 

ほぼ毎日薬を飲んでいて、飲めば6時間くらいはぐっすり眠れるみたいです。

 

昨日(3月23日)また病院に行ったら精神安定剤を出すか聞かれたけど要らないと答えたらしいです。

昼間にぼーっとする副作用があるのが嫌だって。

 

また同じ薬を貰って帰ってきたみたいでした。

 

でも昨日の夜は薬を飲まずに寝たそうです。

私が実家に戻ったので何かあっても大丈夫だと思ったって。

 

ママはあれから弱い所を少しだけ私に見せるようになったと思います。

 

溜め息ばかりでまだまだ考え込んで吐き出せてないことが多いけど、聞けばほんの少しは言ってくれる。

 

私は自分が辛い時は考えていることや感情を言葉にすると少し楽になるから、ママもそうだと信じたい。親子だし。

 

『メンタルが弱くて嫌になる』ってママは言うけどそれ私も本当に思うし。

 

正直鬱病と言われてどう接していいか分からないし、何が正解で何がダメなのかも分からない。

気を張ってないと私までもっていかれる空気感があるけれど。

 

少しでもママの気持ちが軽くなるように話を聞いていこうと思います。

 

 

ここからは私の話です。

 

状況が変わっていく中あえて書かなかった理由も帰らなかった理由も一緒です。

 

最後の『北園さや』としての仕事があったから。

 

書いてしまえば精神的に不安定になりやすい。

 

帰るなら仕事をキャンセルするしかない。

悪化していく状況の中キャンセルしたらもう二度とリスケは出来ない。

これが本当の意味できっとラストチャンス。

 

正直帰るか否かは暫く悩みました。

ママからの連絡もお兄ちゃんからの連絡も焦っているのが伝わるし、このまま4日後までには死んじゃうんじゃないかってくらいのテンションで。

 

でも落ち着いたお兄ちゃんからの連絡で私も落ち着いて。

(たぶんパパがお粥食べれたのが大きかった)

 

それできちんと仕事を終わらせようと思いました。

 

 

この1週間半実家から離れてみて、自分の心が回復したなと感じました。

 

もちろん悲しいし泣いてしまうこともあるけど基本的に前を向いていられるというか。

 

もしかしたら現状を正確に理解出来ていなくて楽観視しているだけなのかもしれないけれど。

 

心が潰れそうなあの嫌な感覚からは解放されました。

 

 

ただやっぱり将来のことを考えると暗闇の中にいる気がします。

 

遅かれ早かれ、理由はどうであれ、人は亡くなります。

 

もしかしたらパパは早い方に入るかもしれないしその理由も分かってる。

 

その時にママはどうなってしまうのだろう。

私はどうしたらいいのだろう。

私自身もどうなってしまうのだろう。

 

考えたって仕方ないのは分かってます。

でも、考えてしまう。

 

 

明日はパパから連絡があるといいなぁ。

 

 

免疫力と精神力

昨日(3月12日)の夕方にパパが検査入院から帰ってきました。

 

帰ってきた姿を見て、たった1日しか離れていないのに自分がどれだけ悪い方向に考えていたか実感しました。

 

パパは元気です。

 

首の痛みは転移したガンが骨を砕きかけていて、その骨が神経を圧迫しているそう。

聞いただけで痛いのが分かります。

 

その痛みを放射線X線)で取り除くことが決まりました。

 

放射線についてもいろいろ調べたけど正直素人には何が何だかさっぱりです。

 

今回はガン自体をどうこうする訳じゃなく痛みを取り除くことが目的になります。

1度の照射で様子を見て、1ヶ月経っても痛みが引かなかったら2度目の照射をするとのこと。

 

10人が受けたら7~8人に効果があるみたいなのでパパにも効いてくれることを祈ります。

 

 

ガンを克服した人の話をネットに転がってるものはいろいろ読んだけど、だいたいの人が免疫力を高めることをしていました。

 

たぶんお兄ちゃんもそれを読んだのか家に免疫力アップに良いとされる食品類が届いてます。

 

黒にんにくが美味しそうでした。

普通に食べたい。

 

あと首の痛みはサポーターがあると全然違うみたいです。

サポーターと言ってもタオルを首に巻いただけだけど、それがあるとちょっとした動作で痛いことがないから過ごしやすそうでした。

 

ただこれらは首に放射線を当てると出来ない(食べ物は刺激物などがNG、放射線を当てたところは肌が弱くなるから摩擦が良くない)のでこれから少し心配です。

 

 

心配続きで言うとママが体調を崩しました。

 

夜中に起きてきて水飲んで戻ったと思ったらまた起きてきての繰り返し。

 

これはおかしいと思って話を聞いたら

すっきりしない、気持ち悪い気がする

って。

 

一応熱を測ったけど平熱だし、朝になっても吐き気が続いてるからと病院に行ったら鬱病だと言われたみたいです。

 

どういう病院に行ったのか分からないしどの程度のものなのかも分からないけど、このままじゃ確実に我が家は崩壊してしまう。

 

私はしばらく実家にいることにしました。

 

ずっとずっと悩んでいたし、正直今でも心は彼氏との新生活を望んでいます。

 

でもそんなワガママ言ってられない。

 

普段とてもしっかりしてるママが泣きながら『行かないで』って縋ってくるんです。

 

もう精神力がギリギリなんです。

 

こんなママを見てたらきっとパパまで精神的に弱くなってしまう。

 

ただ私もかなりギリギリだなって感じるし元々強くないから本当に気を付けないと巻き込まれてしまう。

 

これからどうなっちゃうんだろう。

 

何回も思ってるけど誰にも分からない。

分からないからこそ自分たちで明るい未来を手に出来るような行動をしないといけない。

 

 

強くなりたい。

 

1日経ちまして。

パパがステージ4の肺がんだと診断されて1日経ちました。

 

1日、たった1日なのにこんなにしんどい。

舐めてたとしか言いようがないです。

 

今はまだガンだと確定したわけじゃないから治療は何も始まってません。

 

始まってないからこそなのか、これからどうなるんだろうって不安が止まらない状況です。

 

 

パパはがん性痛というガンにはつきもの?の痛みがかなり酷いみたいで昨晩は全然眠れていませんでした。

 

痛み止めの薬は2種類出されているのに一昨日より酷くなってるのはおかしいと思って調べたら精神が不安定になると痛むタイプのものがあると知りました。

 

弱音を全然吐かないから大丈夫だと勝手に思い込んでたけどそんなことはないんだなって。

 

弱音を吐けないこの環境がパパにとって良いのか悪いのか私にはわかりません。

 

弱音を吐けない=強くあろうとする→強くなる

なのか

弱音を吐けない=ストレスが溜まる→脆くなる

なのか。

 

ただ本人は入院治療を希望してるから後者なのかなって思ったり。

 

 

コロナさえ無ければきっと入院治療でお願いしたと思うんです。

 

コロナのせいで入院したら面会が出来ない。

 

つまりある程度治って退院するか、最期の面会になるか。

 

今までこんなにコロナに対して憤りを感じたことはないくらいの気持ちです。

 

本人はもちろんママの負担も考えたら即入院くらいの状況なのに、会えないことが耐えられない。

 

 

というのもステージ4の肺がんの1年後の生存率は30%らしいです。

これは調べたら出てきました。

 

ママに医者からは余命とか言われたの?って聞いたら何も言われてないらしく。

 

ママも自分で調べてこの数字を知っていて。

30%にかけるしかないって気持ちはあっても、たった30%しかないって気持ちに押しつぶされそうで。

 

この数字を知った上で、面会が出来ないという状況で、入院を選べるほど私たちは強くないんです。

 

ただ脳に転移が見つかると即入院というものを見ました。

生命活動に支障が出る可能性があるから、非常に危険だということらしいです。

 

来週パパは脳のMRIをとりにいくので今は祈ることしか出来ません。

 

 

予定通り通院で、ということになるとママは仕事を辞めて家の事や看病に徹するみたいです。

 

そうなると治療費はもちろん生活費も貯金から崩していくことになる。

いつまで続くのか分からない中でその生活は絶対ストレスになると思うんです。

 

でもそうしないと今度はママが過労で倒れてしまう。

だから私とお兄ちゃんで家にお金を少しでも多く入れて生活費の足しにしてもらうしかない。

 

それでどうにかやり繰りしていくしかないのに、終わりが見えない分、こんなガバガバな考え方でどうにか出来るのかなって不安が付きまといます。

 

 

ここからは私個人の話。

 

私はこの週末から東京暮らしになります。

万が一のことがあってはならないので、コロナが収束しないと実家にはもう帰れないと思ってます。

 

つまり、明日明後日がもしかしたらパパに会える最後になるかもしれない。

 

どんな気持ちでいたらいいんだろう。

 

このブログ書きながらも、書く前からも、ずっとずっと泣いてばかりいます。

 

コロナさえ無ければ。

 

今までもこのセリフは何度か言ってきたけど、こんなに心の底から思うことはなかった。

 

1日でも早く収束してくれることを切に願います。

 

 

パパは今日検査入院してるから様子が分からないけど、ゆっくり眠れているといいなぁ。